1月17日の朝、たまたま僕は起きていました。早朝のニュースを見ていると、最近はさほど珍しくもなくなっていたのですが「地震速報」が流れました。画面表示には、確か「大阪震度4」と出ました。「ああ、たいしたことないな」と瞬間的に思いました。ただ、実家が北大阪なので、いちおう電話をしてみました。ところが、回線がつながらないのです。この瞬間、どきっとしました。結局7時半頃にはつながったのですが、テレビで大阪の映像は映っても、全く神戸が映らないので、もしや、と思いました。
大学にいつも通り登校し、生協のテレビで昼頃映像を見たのですが、嫌な予感が当たってしまいました。しかし、実感としては、神戸にほとんど行ったこともなく友人もいないということで、「第三者的なもの」しか感じることができませんでした。
「他人事」の意識に完全になりかかっていた2月の中頃のことです。この時初めて、「今回の震災」を「他人事」「ワイドショー」といったものとして捉えてはいけないということに気付いたのです。きっかけは、僕の父親がたまたま出張で上京してきた時に、「神戸の惨状」と「こういう時に動くことのできない人間がいくら大学で勉強したところで役に立たない」という話をしたことです。
この時、僕は「はっ」としました。「一体、何のために勉強しているのだろう?」「何のためにビジネスの勉強をしているのだろう?」と。
僕は決めました。神戸に行くことを。自分の目で見て、少しでも動かないと、これから自分は、大学・大学院と行ったところで何にもならないと思いました。「第三者」的な立場はどうしようもないのでしょうが、とにかく見て、動いてきたい気持ちがだんだん強くなってきました。
最初、西宮へ行くつもりでしたが、たまたま、友達が国立で東灘へのボランティアを募集しているということを教えてくれたので、それに決めることとなりました。
平成7年3月2日、神戸市東灘区の魚崎に到着しました。ボランティアは約1週間と短いのですが、できる限りやるつもりで、やってきました。右も左もわからない状況でしたが、目に映る情景は悲惨なものでした。ただ、その時は「かわいそう」といった気持ちにはならなかったのです。「現実なのか非現実なのか」「日常なのか非日常なのか」といった、よくわからない気持ちになっただけなのです。この時、自己嫌悪になったものです。「自分には人間の心がないのか?」と。
魚崎に到着して、数日が経ちました。この時点で「なんてみんな明るいんだ」ということに驚いていました。と同時に「しかし、この明るさの中に深い悲しみもあるのだろう」とも思いました。この時、めちゃくちゃ「悲しい気分」になったものです。しかし、僕は偉そうなことを言うようですが、「明るさ」の方に神戸をかけてみたくなりました。この明るさ、同じ関西人の明るさで、以前の神戸以上の街に復興させてくれるだろう、と。
3月9日、最終日になりました。魚崎では、何をやっていいのかわからないまま、約1週間が過ぎてしまいました。でも、自分の目で見、動いたことで、少し自信がついた気がしました。最後に、どうしても「長田」を見ておきたかったので、ボランティアの友達と2人で行ってきました。何か「見てみる」といっていろいろ動くことは被災者には少々罪悪感がありましたが、やはり見てみたかったのです。
以上が感想と経過です。大したことは書けなかったのですが、これが自分の感想です。

ボランティアと被災者との交流風景