神戸を身近に感じたのは、娘が94年4月から神戸の大学生となり三宮に住んだから。何度か訪れ、その洗練された街並み、海の情緒、人々の柔らかさ等にどんどん惹かれ、神戸は娘を包んでくれる大事な大事な街となったのです。
1995年1月17日、地震のニュースを聞いた時の驚きと不安。伝えられる情報にいら立ち、娘の安全を確認できた時の安堵感。三宮のベットでトランポリンみたいに跳ねたとのこと。部屋は散乱状態であるが、建物は大丈夫でケガもないとのこと。西宮まで6時間もガレキの中を歩き、京都の友人宅へ避難。その後、娘は東京に帰ってきました。本人「良く生き延びたと自分でも思う」‥‥落ち着く間もなく「東京で自分だけ温かく過ごしているわけにはいかない。神戸へボランティアとして行く」せっかく無事で帰ってきたのに、と心配のあまりの反対に「日本中の人が家のお父さんお母さんみたいだったら神戸の人はどうなっちゃうの」涙をためての抗議と筋の通った論理に、自分だけ、家族だけ良ければ、という考えを改めざるを得ませんでした。神戸は私にとっても大事な大事な街のはずだった。支え合うのは当然だと娘に気付かされたのです。それなら私も何か役に立ちたい、と友人と2人で新聞で知ったファミリー国立を訪れたのが、このボランティアに参加したきっかけでした。
阪神線の窓から見た家々の倒れ、ガレキの山々の悲惨さは胸のつまるものでした。テレビ・新聞等で知っている情報をはるかに越えた状況に、ただ茫然とするばかりでした。
魚崎小学校に到着。そこでの仕事は衣類分け、荷物運び、アンケート用紙の配付、食事の諸準備、見回りなどでした。仕事は何でもなかったけれど、寒い体育館や教室内でダンボールで隣の家族との境を作り、毛布にくるまって生活している方々の身や心の痛みを目のあたりにして、ここでも言葉を失いました。人間が暮らせる状況ではありません。心のいら立ち、不安、悲しみ等で揺れ動いている方々に、頑張って下さい、とはとても言えませんでした。怖かったろうなぁ、自分がもし反対の立場だったら、と共有の気持ちを持つのが精一杯でした。
そんな中で、テキパキと働くボランティアの皆さんと出会い、私は何か不思議なものを見るような、第三者的な立場に立っていました。東京で毎日の勤めに追われ、忙しい生活を強いられていた私にとって、ボランティアの皆さんは私が今まで人間に対して抱いていた認識を打ち破るものでした。夜行列車に飛び乗ってきた大学生、ご主人と話し合って出かけてきた主婦の方、福井県のおいしいお豆腐2千丁を持ってきて、ネギもオカカもかけて湯豆腐を出して下さった方々。大阪からカス汁にたくさんの野菜とうどんの入った「やせうま汁」2千食をふるまって下さった方々。ここ神戸に来なくとも何も言われないのに、行かなくては、と自ら行動を起こして下さる方々に対して「そういう行為はなぜできるんだろう‥‥」と。私の心の貧しさを指摘されたような感じで、大きなショックを受けていました。
短いボランティア活動でしたが、私も今までのように仕事をする、税金を払うという貢献だけでなく、社会を支える1人として自分の意志で積極的に何かできることから始めて、少しでも出会った方々に追いつきたいと考えるようになりました。足手まといだった私に「いいのよ。ここへ来てゴミ1つでも拾って下さっても、立派なボランティアだと思うのよ」と言って下さった方。人々の優しさに触れられ、人間としてのあり方、心の持ち方についても深く考えさせられ、気付かされた貴重な神戸のボランティアでした。ありがとうございました。

倒壊した家屋