こうした中、28日には民生委員の会議が予定通り行なわれた。震災後初めての顔合わせであったが、南北各8名、合わせて16名が出席した。そして、震災後の苦労話や今後のこと、とりわけケアの引き継ぎと活動不能地区の扱いについて話し合われたのであった。
それによると、魚崎地区の民生委員の状況は、現在活動中またはその地域を把握している人が22人中17人であったので、引き継ぎに支障をきたすことはまず考えられなかった。それに、震災で死亡したり疎開したりした人が案外多く、対象者の数は明らかに減少していたから、活動不能地区についても隣接ブロックの担当者などがフォローすれば事足りると思われたのである。そこで、引き継ぎは了承されるに至った。
こうして引き継ぎ開始の許可が出たので、さっそく用意しておいた資料をもとに活動を始めた。そして、地区ごとに民生委員1人1人に直接会い、資料を通じてこれまでの活動内容と現状を報告することで、引き継ぎを済ませていったのである。また、最後の訪問時には、対象者に対して民生委員に引き継いだことを伝えていった。
このようにして、まず手始めに31日には3ブロック、1日には北地区の代表と会って11ブロックを引き継いだ。そして、以後も順調にいって、5日までに残り2ブロックとなった。しかも、その残りもあと数日で終了する見込みであったので、最大の難関であったケアの引き継ぎもいよいよ大詰めを迎えることになった。
一方、この間、ファミリーの活動としては、いつものルーティンワークのほかに新しい報告書の作成(パソコンで作ったもの)、本部の掃除や毛布・布団干し、名簿の訂正チェック、入学式の準備のための机・イスの移動の手伝い、駐輪場の整備、駐車場のライン引き、それに物資の減少に伴う雑貨の時間短縮などが行なわれた。また駐車場に関しては、駐車場所を巡ってトラブルが発生したので、車のナンバーと駐車番号等を記入した表を作り、それを貼ったイスを1台ごとに置いていくことで、問題が起きないようにした。
それから、この時期になって、本部より、これまでのケアのことをまとめてデータ化してほしいとの要望があったので、関連する資料を集めるとともに、とりあえず必要そうなものをパソコンに打ち込んでいった。ただしケア対象者個人の問題についてはプライバシーの問題上打ち込みはしないこととし、ケアファイルなどの資料も福祉事務所に保管してもらうようにした。
なお、本部より依頼のあった入学式用の花については、国立の方で知り合いの京都の花屋を手配し、パンジーなど200鉢を注文するとともに、新入生用にメッセージ付きのカードを用意し、花を渡すときに一緒に配ることにした。そして、5日には京都までその花を取りに行った。
しかし、もはやボランティアのやるべきことは限られていたので、基本的に暇な状況は改善されず、それがボランティアにとってもプレッシャーになっていたのであった。
他方、本部スタッフも、4月になるといろいろと忙しくなったので、本部を空けることが多くなっていた。そのためこれまでのような活動は不可能となり、とりあえずはボランティアがそれを補っていたのである。だが、避難者の自立のことを考えると、またボランティアはいずれ撤退してしまうことを考えると、それはふさわしくないやり方であった。しかも、周りの避難所では徐々に避難者自身による運営に切り替えていたから、本部としても、そうした流れを受けて、そろそろ引き際を考えるようになっていたのである。
そんな中、6日夜7時より、各教室の代表者をテントに集めて緊急全体会議を開くことになった。そして、避難者の代表が集まり、ボランティアも同席する中で、本部長から、4月15日をもって現在の本部を解散し、以後は、行政との関係を除いて全て避難者同士で運営していってほしい、との発言が出たのである。これはあまりに突然のことであったので、避難者もボランティアも驚き入ってしまった。そのため、避難者の中からは「急に言われてもどうしたらいいのかわからない」などといった意見が出た。しかし、本部長をはじめスタッフの決意は堅く、「避難者も甘えてばかりはいられないのだ」といった具合で説得していった。そして、結局9日に避難者同士で会議を開いて、今後の方針を決めることになった。
その夜は、本部スタッフも避難者もボランティアも、皆で震災からこれまでのことを振り返り、苦しいこと、楽しいことなど、いろいろなことがあったものだと感慨に浸っていた。そこには、ここまでやり遂げたという満足感があったが、その一方で、何かもの悲しい雰囲気も漂っていたのであった。
ところで、このことはファミリーにとっても大きな出来事であった。なぜなら、2月の初頭からこれまで、ファミリーは本部の下で活動を続けてきたからである。しかも、ケアの引き継ぎが終了するのはもう間近であったし、他の仕事も大したことはなく、いざとなればすぐにでも避難者に引き継げるようなものばかりであったのだ。それに、事務局もほとんど活動停止状態であったから、いたずらに活動を続けても仕方なかったのである。
しかし、これほどの問題となると、さすがに現地の意向だけで決めるわけにはいかなかった。そこで、翌日の朝には坂本の家に電話をしてこのことを伝えるとともに、介護ショップ「ファミリー」にいる吉川和子にも連絡して、撤退するかどうかを、活動を始めた2人に決めてもらうことにした。そして、その結果、やはりこれ以上派遣する必要はないとの結論に達し、本部の解散と時を同じくしてファミリーの活動も終了することに決した。活動を始めてから、実に64日目の決断であった。
それからは、7日にケアの引き継ぎが完了する一方で、9日のイベント「がんばれ 魚崎チャレンジ大会」では大声大会と街作りシンポジウムが予定されていたので、その準備に追われた。また、理科室・図工室の明け渡しや毛布・敷布団の整理などもあって、それなりに忙しい日々を過ごした。
9日はあいにくの雨であった。そのため、午前中の大声大会は講堂で行なわれることになり、盛り上がりに欠けたが、午後の街作りシンポジウムには、大雨にもかかわらず、マスコミを含めたくさんの人が集まり、関心の強さを物語っていた。
そして、その夜には講堂で避難者会議が開かれた。ところが、全員出席を呼びかけたのに、最初の出席率はあまり良くなかった。また会議が始まっても、「そんなことには関わりたくない」などと皆勝手なことばかり言っていたため、意見のまとまりもつかなかったのである。しかし、本部スタッフもボランティアも、ただ成り行きを見守るしかなかった。こうして会議は予想以上に延びてしまったが、避難者も今後のことにはいちおう理解を示し、運営委員もどうにか10人選出されて、会議を終えることができた。
その会議が終わってからは、運営委員と本部スタッフ等との間で話し合いがもたれ、運営委員を1週間交代のローテーション制にするとか、毎週水曜日に定例会を開くなど、今後のことを決めていった。また、本部とボランティアがこれまでやってきたことについても、これから順次引き継いでいくことになった。

夜桜とともに記念撮影
以後、ファミリーは3人体制となり、給食室の明け渡しを手伝ったり「うんどうぐつ」から送られた食器を配ったりしたが、基本的には避難者への仕事の引き継ぎを応援することになっていた。そして、食事の搬入・配給や雑貨の配給、テント内のゴミの片付けなど、これまで行なっていた仕事がどんどん引き継がれていき、やることがなくなっていった。
そうした中、11日には入学式があったので、かねてから用意していた花を新入生に渡すことになった。これは、渡し方について担当の先生と十分に話し合っていなかったため、直前の段階で多少混乱したが、新入生1人1人に直接手渡しすることにして、喜んでもらえた。なお、余った花については、各クラスに贈る一方、職員室、保健室、音楽室などに置いてもらうことになった。
その後は、ケアの資料整理や本部の電話番、それに『せせらぎ』の原稿作りといった仕事に明け暮れ、時間だけが淡々と過ぎていった。
そして、運命の15日を迎えた。この日で本部もファミリーも最後であったが、3人のうち、原口以外は個人ボランティアとしてしばらく残ることに決めていた。そのため、活動終了といっても、特に何の影響もなく済んだのであった。
こうして、2ヵ月半に渡ったファミリー国立の活動は、ひっそりと幕を閉じた。しかし、避難者にとっては、これはまだ始まりの序曲に過ぎなかったのである‥‥。
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