こうした中で、現地ではケアの引き継ぎに向けて動き出していた。
当初、ケアについては保健所への引き継ぎを目指していたが、看護師のボランティアの方が週1回の割合で3回程保健師と情報交換し、引き継ぎの資料もまとまったので、引き継ぎは時間の問題となっていた。しかし、保健師は地域の保健サービスに従事しているから、疾病や精神症状等も特になく、訪問時に世間話をしていたような対象者に対しては、引き継ぎ後もケアをしてもらえる見込みはなかったのである。そのため、こうした人たちをカバーしなければならなかったのだが、震災前にはこうした活動は民生委員が行なっていたので、その人たちと交渉するのが望ましい選択であった。そこで、本部からの指示により、とりあえず17日に原口が民生委員の代表者と会って話を聞いてくることになった。
民生委員は、震災前までは65歳以上の独り暮らしの方を訪問し、1週間に1回の安否確認を行なっていたが、震災後は民生委員も被災者となったため、活動がマヒ状態になっていた。訪ねた方も、今だに近くの集会所に避難中であった。そのため、その人の話では、かつては魚崎地区を阪神線の南北で分けて各11地区、計22地区を22人の民生委員で分担し、それぞれ約10名の方を観ていたのだが、現在では各々4人ぐらいしか活動できていないのではないか、とのことであった。なお、その話の際、ファミリーのこれまでの活動を説明し理解してもらったが、まだ引き継ぎをどうこう言うような状況ではなかった。
ところが、その後民生委員の方とファミリーのメンバーで手分けして調べてみたところ、合わせて14人が活動中またはその地域のことを把握していることがわかった。これでなんとか引き継ぎに見込みが出てきたのである。そこで早速この件について尋ねてみると、民生委員自身も必要なことだと感じたので、全面的に協力してくれることになった。折しも28日には民生委員の総会があるので、その際報告を兼ねて皆で集まり、今回の引き継ぎのことと活動のできていない地区のことについて話し合うことになった。
また、これまでの巡回に漏れがないかを確認するため、民生委員の巡回対象者リストを福祉事務所から取り寄せてもらい、ボランティアのリストと照合することにした。これは普通外部の人に見せることはない資料であったが、理解を得て今回特別に了承されたのである(ただし、悪用を避けるため、コピーは必要最小限のみとし、厳しく管理して後に返却することにした)。そして、このリストをもとに、22地区をAからVに分けて、民生委員が活動中とわかった地区の訪問は控える一方で、不在地区については避難先の民生委員に、代表者を通じて活動許可を取るようにしてから、リスト漏れのないようにもう1度1件1件訪ねていった。

民生委員のブロックとケア対象者の分布
そうした中、20日には、原口らボランティアの代表2名と、先に協力を約束してくれた民生委員の方とで福祉事務所に行った。これは、ファミリーが震災後やってきた活動を説明して引き継ぎについて理解を得るとともに、ケア活動に関する行政の情報が地元のボランティアにしか流れていなかったので、それを提供してもらうことでより良いケアを行なおうとしたのであった。だが、最初はファミリーのことを説明するのに手間取り、なかなか信用してもらえなかった。というのも、原口らボランティア自身でさえも「ファミリー国立とは何か」などと考えてもみなかったので、その事について質問された際に筋の通った説明ができなかったのである。おまけに、福祉事務所の人にはこれからケアのボランティアをしようとしている団体かと誤解されてしまったのである。このように趣旨がわかってもらえず苦しんだが、時間をかけてようやく理解してもらい、引き継ぎへの展望が開けたのであった。
そこで、さっそく引き継ぎに向けての準備に取りかかったが、これは民生委員1人1人に説明していかなければならないことであったから、まずは説明のマニュアル作りを行なった。そして各地区ごとに、ケアを続けている人も打ち切った人も含めて何人の対象者がいるかを調べて、それぞれに必要な情報を申し送りできるように資料を整理していった。またケアの内容をみると、ファミリーの活動は民生委員と比べて必要以上に行なっていたようなので、今までと同じやり方で良いのか、「巡回の手引き」などを見てもらい、民生委員の意見を聞くことにした。
こうして引き継ぎの準備は着々と進んでいったが、その中で、引き継ぎにはかなり時間がかかるであろうし、被災者の自立を早めることにもなるから、ケアファイルを民生委員個人個人について見せていくことで引き継ぎを開始してはどうか、という意見が出てきた。しかし、民生委員の方からは、現在活動中の民生委員に引き継げるとしても28日以降にしてほしい、と言われたので、28日の会議の結果を待ってからにすることとした。

体育館内の様子
一方、校内では、この時期ライフラインの復旧で自宅に戻ったり、親戚の家に疎開したり、仮設住宅が当たったりして出ていく人が増えたため、避難者の数は280人程度まで減少していた。とはいえ、今だに仮設住宅などはごく一部の人にしか当たらなかったから、残された人々は長期的な避難所生活に対応していかなければならなかったのである。
そこで、まず教室ごとに郵便ポストが設置されるとともに、体育館についても、これまでは余った段ボールなどでいちおうの仕切りを作っていたのだが、新しく来た救援物資を用いて立派な仕切りを作っていった。また、関西SLAという慰問・相談を請け負う団体やマッサージ師が校内を巡回して、避難者の心を和らげていた。なお、28日には国立から送られた洗濯機も1台設置され、既にあった4~5台と合わせて、生活がさらに便利になった。
こうした中、24日の卒業式の際に3Fの講堂を使うことになっていたので、そこを空けて掃除をすることになった。これは松下とファミリーと共同で行なった仕事であったが、以後も階段や玄関周辺など公共的な部分の掃除をして、避難者には好評であった。しかし、この部分は避難者の自立のためにボランティアは手を引いたので、次第に避難者自身がやるようになっていった。
また、ゴミの分別についても、さらなる徹底を呼びかけるとともに、ボランティアのアイディアで、一斗缶や発砲スチロールの箱を使って燃えるゴミ、燃えないゴミ、ビン・カンの3種のゴミ箱を作り、4月1日に名簿の確認と兼ねて各教室に配布していった。だが、この頃にはたいていの所で既にゴミの分別を自主的に行なっていたので、新たにゴミ箱を置く必要はなくなっていたのである。そのため、この提案はあまり評判は良くなく、ボランティアもこれ以上この問題に関わらないことにした。
このように、避難者の生活は、時間が経つにつれて確実に自立の方向へと進んでいった。そして、ボランティアの仕事でさえも手伝いを申し出るようになっていたのだ。もはや機は熟し、ボランティアがいなくとも、ある程度避難者同士でやっていけるようになっていたのである。
ところで、同じ頃より本部テントの改修工事も始まっていた。これは、これまでのテントを取り囲むようにして、今までのものより数倍大きなテントを建てるものであったが、それに伴いこれまでのテントの中も改装していった。すなわち、その中にはこれまでパソコン等の事務機器や救援物資などが置いてあったのだが、新しい大テント内に物資の置場を設けたので、そこに物資を移動するとともに、空いたスペースには2階建ての簡易ベッド(上が女子用・下が男子用)や棚、TV台、クローゼットなどの家具を大工のボランティアの方に作ってもらって適当に配置し、女子更衣室もテントの横に設けて、ボランティアも中で暮らせるようにしたのである。

大テント内の見取図
そして、改修が一通り済んだ段階で、ファミリーも理科室から本部テントに引っ越しをすることになった。ただし、これまでの資料や寝具などが膨大にあったので、移動は一遍には行なわず、25日から5日かけて順次荷物を運び込んでいった。その後は、食事もミーティングも寝るのも、基本的に本部内で済ませるようになった。
それから、テント内には、本部と物資の倉庫のほかに、建築ボランティアの方が作った魚崎地区の全壊・半壊などがわかる模型をはじめ、卓球台やテーブル、パソコンなどを備えるとともに、集会施設としても使えるようにして、避難者の憩いの場となるようにした。また雑貨用の物資についても、盗まれないように保管はテント内にして、配給の際にはその都度配給場所まで運搬することにした。
なお、この時期になると、松下もボランティアを減らしていき、これまでの日帰り+1週間リーダー制を止めて、日帰り+3日リーダー(3人)で、最初と最後の日を引き継ぎに当てるようにした。そのため、メンバーがめまぐるしく変わるようになってしまったのである。

外から見た大テント。本部テントはこの中にある
他方、校外では、各地で家の取り壊しが盛んに行なわれるようになっていた。これについては、魚崎小でも業者の協力を得て「解援隊」を組織し、周辺地域のガレキ撤去や解体の受付を行なっていたが、他にも多数の民間業者が電柱に「解体請負」といったビラを貼って広告するなど、被災者の生活の安定化に伴い徐々に解体工事が増えていった(中には、被災者の気持ちにつけ込んで詐欺まがいの商売をするものもあった)。そして、それによりガレキが片付けられ、さら地になる所が次第に増えて、街の風景もだんだんと変わっていった。
また、仮設住宅についても、これまでは北区・西区など神戸市の郊外に建てられるものがほとんどであり、そのために避難者が避難所から移りたがらないという問題があったが、この頃になって、わずかではあるがようやく市街地にも仮設住宅が建てられるようになったのである。そして、それは魚崎でも例外ではなく、校区内にある瀬戸公園と南町2丁目の公園に仮設がそれぞれ370戸と70戸建てられ、完成し次第入居も始まっていった。しかし、この時点でも抽選の際には障害者や高齢者が優先なので、近くの仮設はそれでいっぱいになってしまうし、募集単位も「神戸市」であったから、一般の人は六甲アイランドや六甲山の北側などの離れた所でないと当たらず、慣れない土地に住まざるを得ないという状況がしばらく続いた。
なお、校内の仮設校舎もこの頃には完成し、当面は避難者の一部の住まいおよび6年生の教室として使っていくことになった。
しかし、このように復興への取り組みが進んでいく中でも、解決されずに残っている問題があった。
それは、26日に発覚したケア対象者のことであった。その日は秋田からきりたんぽの炊き出しがあったので、例のごとくケアの方にそれを届けに行った。ところが、そのうちの1夫婦に配達したところ、夫の方が激しい剣幕で、風呂・食事に困っている、ボランティアには毎日でも来てほしい、と訴えたのである。しかも、今住んでいる所は3月いっぱいまでであり、仮設が当たらなければ住む所がなくなってしまう、と言うのだ。そのため、行政の福祉サービスの話をしてみたが、それは前に頼んだが、未だに来てくれないのだ、と行政への怒りをあらわにしたのであった。
そこで、翌日原口らが改めて訪ねて話を聞いたところ、障害者である妻のケアが大変でなかなか出かけられず、仕事の収入も得られず困っているとのことであった。だが、彼自身も精神的にまいっていて、メンタルケアが必要な状態であった。もはやボランティアだけでは解決できない問題だったため、本部と福祉事務所に話をし、対策を考えてもらうことにした。
この夫婦については、これまでのケアでは夫とはあまり会っておらず、詳しい状況も知らずにいたので、あまり気にかけず、週1回程度で済ませていたのだが、そこには思いがけない盲点があったのだ。これは、ボランティアにとっても残念で仕方なかった。何とかしたい、少しでも負担を軽くしたいと思っても、何もできず、無力で、やるせない思いだけが残った。
結局、この夫婦は仮設にも当たらなかったので、本部の計らいで、この前空いた理科室を使ってもらうことにした。しかし、本人が特別扱いはされたくないから車で生活するとのことだったので、以後は必要な時に連絡してもらうようにして、手取り足とり面倒はみないことにした。
また28日には、近くの仮設住宅に入居した方が、困っていることがあるので訪問して手伝ってほしい、と言ってきたので、さっそく行ってみることにした。この方は以前魚崎小に避難していた障害者であったが、仮設自体がいわゆる「弱者」優先の入居であるので、そこには他にもたくさんの老人・障害者がいた。そのため、その人だけをケアするというわけにはいかなくなり、仮設のケアについても新たに考えていかざるを得なくなったのである。
この時には、福祉事務所も地元のボランティア団体もこれから活動する予定ではあるがまだ始められずにいる、との情報を入手していたので、ファミリーで仮設のローラーとケアをやるべきかどうかを話し合った。とはいっても、瀬戸と南町で合わせて440戸もあると、さすがにファミリーの活動だけでは手に追えないことが予想された。しかも、本部には仮設の資料などなかったので、どれだけ大変な活動になるかはわからなかった。そこで、本部と相談した結果、とりあえずは福祉事務所と地元のボランティア団体の活動状況を改めて調べてみることにした。
ところが調べてみると、地元のボランティア団体が既に活動を始めていることがわかった。そのため、ファミリーは活動に関与しないことにするとともに、ケアを希望した方には、この団体の連絡先を教えて、問題を解決したのであった。
このように、3月ともなると復興に向けて本格的に動き出していたが、その影では困難な問題もまだ多く残っていたのだ。しかし、これをなんとか乗り切ったことで、ファミリーの活動はある意味で「気楽なもの」となっていったのである。