祭りが終わると、いよいよ本格的に自立への道を歩むことになった。
まずかねてから予告していたように、校外の人への食事の配給は、12日をもって打ち切られた。これは他の避難所がだいたい2月いっぱいで打ち切ったのに比べれば遅いことではあったが、逆に言えば、魚崎小はまだまだ物資に恵まれていたのである。そして、避難者に対しては350食分の食料が配分され、朝・昼食は図工室前(雑貨の配布場所)でパンが、夕食は給食室で弁当等が配られたのであるが、特に夕食に関しては、外部の人とトラブルが起きないようチェック表を作り、教室ごとに夕食の必要な数を前日までに書いてもらい、当日それと照合するようにした。これについては、当初は連絡が不行き届きでチェックもずさんであるなどして、配布の際に多少混乱もしたが、次第に慣れてスムーズにいくようになった。
しかし、炊き出しについては、ほとんどなくなってはいたものの、校外の人に対しても規制はせず、以前と同じように配給していた。ところが有効な広報手段を持たなかったため、せっかく炊き出しがあっても、いつあるのか情報が行き渡らない状態であった。
そして、これまでは使い捨ての容器ばかりが使われていたが、避難所生活の長期化に備えて物を大事にしてもらおうということで、13日から3日かけて、以前仕分けした食器類を避難者の方々に配っていった(ちなみに、15日には国立から持ってきた本も配ったが、あまり評判は良くなかった)。
だが、この時期になるとさすがに物資も減ってきていた。特に雑貨の配給で 需要のある箱ティッシュやカイロなどは底をついたし、他の物も数が目立って減少した。そのため、出すものが限られてこざるを得なくなり、足りない物は 自分で買うより他になくなってきたのであった。
こうして校内は自立に向けて動き出したが、校外でも、ライフラインの復旧に伴い、これまで疎開していた人が戻るようになっていた。そこで、松下が先のローラー作戦の後に作ったリストをもとに、14日から3回目の安否調査を行ない、16日には電話調査も実行した。そして、これによりケアが必要とされた人については後日訪問し、フォローするようにした。また、16日には入浴サービスも実施された。
このような中で、ファミリーの活動も新たな段階に入った。
この時には、リーダーは吉川大介から貝瀬和人に、ケアも4月半ばまでいる原口真由美に引き継がれ、仕事もどうにかこなしていたが、人数は、これまでの十数人、祭りの時の30人から一気に一桁へと減少した。しかし、それでも仕事には余裕があった。というのは、この頃の活動は、5時半起きでパンの搬入をする人が1名(個人ボランティアがやる場合も)、6時の朝食準備が1~2名、家庭科室の鍵当番が1名、雑貨が2名、ケアが2組4名と、毎日やるべき仕事と人手がほぼ決まっていたし、それぞれの仕事の内容も、例えば校内ケアが6日に保健師に引き継がれるなど、自立への動きの中で楽なものになっていたのである。そのため、他の仕事といってもせいぜい毎週『せせらぎ』の原稿作りがある程度で、あとは9日の鉄火丼配達が大変好評だったので、13・16・21日と炊き出しがあった時にはケアの方に届けるようにしたぐらいであり、他に突発的に釘拾いや先の食器配りなどもあったが、総じて暇になっていた。
このように、現地では祭りの興奮も冷めやらぬうちに、自立に向けて大きく動き出していた。そして、被災地におけるボランティアの役割はますます小さなものとなっていった。
一方、国立の事務局では、祭りの余韻に浸る間もなく、16日の報告会に向けて準備を進めていた。
今回は、前回とは異なり、事前に朝日タウンズと社協だよりに日時・場所を載せていたし、読売新聞も祭りの後に取材に来て、報告会の記事を掲載してくれることになったので、開催前から問い合わせの電話がいくつかかかってくるなど、内輪以外にもかなりの数の人が来るものと思われた。それに、現地の様子が落ち着き、ボランティアの必要性が薄らいできている状況においては、これまでの活動の集大成として、この報告会の意義はますます大きなものとなっていた。
そこで、土志田隆を中心に資料作りと打ち合わせが入念に行なわれた。すなわち、まず報告者として3名を選び、活動報告を依頼するとともに、プログラム作りを始めた。そして兼松氏に『国立から』4号の原稿執筆をお願いする一方、現地支援状況報告書の一部抜粋や「ファミリー国立の神戸での活動の概要」、さらにマスコミでの記事を資料としてまとめ、ビデオの編集なども行なった。また、当日には報告者との打ち合わせも行なわれた。こうして準備もどうにか整い、本番を迎えることになった。
場所はくにたち福祉会館の3階中会議室であったが、開始30分前から徐々に人が集まり始めるほどの人気であった。受付で資料を渡し、会場のチェックを終えいざ開始という時には、すでに用意してあった40数人分のイスも全て埋まりそうになっていた。
こうした中、司会の水谷の一声で舞台の幕は切って落とされた。そして、まず坂本剛史が全体の概要を簡単に説明した後、現地で撮ったビデオの映像が流された。これは、2月中旬時点での現地の様子と、せせらぎ祭りの模様をそれぞれ7分ずつぐらいにまとめたものであったが、説明を加えながらの映像であったので、非常にわかりやすいものになっていた。続いて、現地の様子を収めた写真をスライド方式でテレビに映していき、やはり説明を加えていった。
次に、3人の報告者による活動報告へと進んでいった。この3人は2月にケアやゴミの分別等で活躍した人たちであったが、うれしかったことや辛かったことなど、それぞれのボランティア体験を話してもらい、貴重な話を聞くことができた。その後の質疑応答では、こうした話に対する意見や質問として、ボランティアの中にメンタルケアを必要とした人はいなかったかとか、今後の活動方針はどうなっているのかといった質問が出て、活発な議論となった。そして、最後に代表者である吉川和子が挨拶をして、2時間半に渡った報告会も無事に終えることができた。
その後の交流会では、かつての同志が久しぶりに集まったので、同窓会のような盛り上がりとなった。知らない人同士も自己紹介をし合って仲良くなり、いろいろな話に花を咲かせていた。そして、活動時のことを思い出しては、よくぞここまでやって来たものだと感慨に浸り、皆満足感を味わっていたのであった。


このように、一刻も早い被災地の復興を目指してきたファミリーの活動は、ここで1つの到達点に達した。現地では、震災から2ヵ月が過ぎて、いよいよ自立復興に向けて動き出し、ボランティアの役割も減少してきていた。その中で、当面の目標であった被災者の自立もどうにか達成されようとしていたのである。
しかし、これは、これまで一丸となってやってきた活動の目標が喪失することでもあった。特にせせらぎ祭りが大成功したことで、ボランティア自身も、満足感と安堵感とがあわさって、あたかもそこで活動が終わったかのような錯覚に囚われてしまったのである。そのため、頭の中ではそれ以降も活動が続いていることはわかっていても、気持ちの中では既に過去の出来事になっていたのであった。おまけに、ファミリーを立ち上げた坂本は、この頃国立のボランティア・センターへの就職が内定したので、そちらの方に関心が移っていたのである。
こうなると、今後の活動について、継続するのか撤退するのか、真剣に考えなければならなくなった。