12日の「せせらぎ祭り」の開催については、既に2月20日頃には決まっていた。ちょうどこの頃から校内および周辺地域の様子が落ち着き出していたので、これからの本格的な復興に向けて、被災者みんなで歩き出すきっかけにしようとしたのである。そして、ファミリーとしても、ボランティアとして復興対策に関わっていたから、協賛者として、この祭りで催し物の企画を出すことになった。
このことを聞いた国立の事務局は、その趣旨に大いに賛同し、さっそく準備に取りかかった。とりあえず、現地からは特に注文はなかったので、まず企画を考える所から始まった。そして「ミスター避難所コンテスト」とか「ドッヂボール大会」など、いろいろなアイディアが出されはしたが、こちらの出し物としてはいまいちパッとしない案ばかりであったので却下された。せっかく国立から行くのであるから、普段見られないようなものを見せたかったのである。そこで再度検討したところ、社協の方がパントマイムの芸人を知っているというので、協力を依頼することにした。すると、先方も是非行きたいとのことで、2~3名が交通費の支給のみで行ってくれることになった。また、国立市内には民族音楽のプカティカ(アンデス音楽)を演奏する団体があったので、そちらにも交渉してみたところ、なんとか都合がついたので、行ってくれることになった。
それから、模擬店を出し、炊き出しを行なうことにもなっていたので、そこで何を出すかも問題になった。その際、焼そば、ちらし寿司、中華料理といった意見も出たが、やはり東京らしい物を提供しようということで、結局おでんをメインで出すことに決まり、「国立豊かな老後をつくる会」に準備をお願いすることになった。さらに、被災者へのプレゼントとして、手紙と品物を入れたポシェットを配るという案が前々からあったので、この機会に行なうことにした。
こうして一通り企画が出揃ったので、次に、具体的に内容を詰める作業に入った。まず「救援ポシェット」については、手紙を市内の小・中学校の生徒らに書いてもらうこととし、学校の先生などと交渉したが、その結果、向陽保育園、児童館、国立一中、学芸大付属高校の合わせて600人の生徒が協力してくれることになり、被災者に向けて短い手紙を書いてもらった。それとともに、その袋についても、紙よりは布製の方がゴミにならないし今後も使ってもらえると思われたので、その製作についてPTAの方などに働きかけたところ、二小の有志の方が余り布等を持ち寄って作ってくれることになった。また、中に入れる品物については、商店街やロータリークラブなどにお願いして、おもちゃなどを提供してもらうことができた。
加えて、おでんの炊き出しのために容器やはし、おたまなどを社協から貸してもらうとともに、鍋は防災センターから防災鍋を借りることになった。しかし、松下もおでんを出すとのことだったので、重複を避けて急遽フルーツポンチに変更した。そして、こうした救援ポシェットや炊き出し用の機材・材料、大道芸のための機材(楽器等)の運搬のためには輸送用のトラックが必要なので、国立市役所に貸出依頼を申請して、なんとか運転手付きの2tトラックを1台借りることができた。また、これらに伴う出費(主に交通費)が25万円にも昇ることから、商工会や国立市文化スポーツ振興財団などに寄付をお願いして回った。その上、現地から避難者の自立のためにどんぶりがほしいとの話があったので、下村の寄付金により、どんぶり600個を急ぎ手配し、現地に持って行くことにした。さらに、現地に向かうボランティアもこの時ばかりは特別に増やし、祭りの直前に17人も送るようにした。
このようにして企画の準備も何とか整い、いよいよ現地に向かうことになった。
一方、その間、現地の方でもせせらぎ祭りに向けて着々と準備がされていった。
まず催し物の企画については、協賛者である松下電器労組やファミリーの協力の下、本部ミーティングなどでアイディアを出し合った。そして、その話し合いの結果、カラオケ大会を賞品付きで開催することに決まり、さっそく参加者を募集した。また入場の際には、魚崎町の復興基金として入場料100円を徴収する代わりに、模擬店での飲食を無料とすることに決定した。しかも入場券は抽選券付きとし、抽選会では8等までそれぞれ景品を出すことにしたから、カラオケの賞品と合わせて、景品集めにも力を注いだ。
こうして企画が出揃った段階で、次に催し物のタイムスケジュールと配置を決めるとともに、それと並行してチラシ作りにも励んだ。そして、出来上がったビラを各教室に5枚ずつ配ったほか、校内や灘高、魚崎中、幼稚園などにも掲示した。と同時に、チケット売りも行なわれ、祭りの看板の製作にも取りかかった。さらには、12日をもって外部への配給を止めることについても改めて通告した。
祭りの前日ともなると、ボランティアも急増し、いよいよ本格的な準備に取り組み始めた。まずは模擬店やステージの場所にたき火や自転車があったから、それらを片付けるとともに、テントの組み立てや舞台作りを始めとする具体的な準備作業を行なった。これには、かつてファミリーや松下と一緒に活動した「うんどうぐつ」も加わり、共同して準備を進めていった。他方で、ファミリーが書いた原稿などをもとにして、『せせらぎ』創刊号の製作も、松下の編集により順調に進められた。また、ケアの巡回時に祭りの参加希望者を募ったところ、3人の方が参加をしたいとのことだったので、当日車での送迎が行なわれるよう手配した。
このようにして、準備はほぼ整った。そして、震災後初めての大イベントを目の前にして、いやがうえにもボルテージが上がっていったのである。


祭りの当日は朝からきれいに晴れ渡り、絶好の祭り日和になった。そんな中、ボランティアや本部スタッフは最後の準備に追われた。といっても、ファミリーだけでも30名、松下は200名近くもいたから、それほど手間はかからなかった。そして、それが終わる頃から、多くの人が、開始前にもかかわらず、青い空に誘われるように集まってきた。本部としては5千人規模の祭りになると見込んでいたが、出足は好調であった。また、ケア対象者の送迎も滞りなく行なわれ、『せせらぎ』も完成して、あとは開始時間を待つだけとなった。
そして、いよいよ10時より祭りは開始された。この時には既に大勢の人でごった返しており、模擬店などは大盛況であった。このため、ファミリーの方で用意していたフルーツポンチ800食も注文が殺到し、わずか1時間でなくなってしまった。そのうえ、昼からは、用意していた救援ポシェットを子供用と大人用とに分けて配ったが、子供用の時には予想以上に多く集まり、長蛇の列ができるほどであったし、大人用を渡す時にも子供が欲しがるなど、どちらも大変好評で喜ばれた。
一方舞台では、11時半頃よりパントマイムショーが行なわれた。その際、念のために「さくら」を用意していたのだが、観客を巻き込んだ演出が被災者に受けて非常に盛り上がり、心配は無用であった。また、その後12時頃からは民族音楽としてアンデス音楽が奏でられ、多くの人がその音色に酔いしれていた。そして、次のカラオケ大会では出場者が思い思いに歌い、その姿を皆楽しそうに見物していた。ここに至って、盛り上がりは最高潮に達した。
最後の抽選会の時になって、突然雨が降り出してしまったのは残念だったが、このイベントは大成功であった。被災者もボランティアも、食べたり笑ったり語り合ったりと、楽しい一時を過ごした。結局4千人弱もの人が訪れ、それぞれ満足してもらえたようであった。そして、自立に向けての第一歩としても、貴重な出来事であった。

ファミリーが用意したフルーツポンチは大好評