この間、国立の事務局では、さらなる組織の発展のため、人集めと資金集めに奔走していた。人も金も、ファミリーの記事が朝日タウンズに載るなどして知名度が上がったため、当面は足りていたのだが、4月以降のことを考えるとまだまだ十分ではなかったのである。そこで、人集めのために日本青年奉仕協会(JYVA)と情報交換し、ボランティア希望者にファミリーのことを紹介してもらえるようお願いするとともに、パソコン通信にもアクセスして、活動希望者を募った。また、資金集めのために一橋大OBによる支援の話を聞いたりした。しかし、いずれの取り組みも、目立った成果をあげることはできなかった。
こうした中で、現地ではボランティアが余り気味になっているという情報がFAXによる報告で伝えられてきた。また現地対策本部からも、ボランティアの派遣にあたっては、単なる頭数の動員から派遣要員の質およびソフトの提供を重視する路線へと移行してほしい、との要請があった。そのため、事務局としても体制の立て直しを図っていくことになった。
そこで、まず、魚崎への派遣を極力抑えていくことにした。それまでは常時10~20人は確保するようにローテーションを組んでいたが、現地の復興状況に合わせて、人員をこれ以上あまり増やさないこととし、次第に人を減らしていったのである。そのため、6日から現地で活動することになっていた水谷詩帆も魚崎行きを取り止めて、他の避難所へ行くことにした。そして、これから行く人のために「神戸に出発するにあたっての心構え」を新たに作成し、事態の変化を伝えるようにした。
また、派遣抑制の穴埋めとして、どうしても現地に行きたいという人のために他の活動場所も探すこととなった。そんな時、たまたまJYVAから現地のボランティア受け入れ情報を入手していたので、その中で連絡先として載っていた神戸市内の各区役所に問い合わせてみると、中央区のボランティアの方から、ぜひ派遣してほしい、との情報が得られた。そこで、団体としての派遣はしなかったが、希望者には活動場所として紹介し、何名かは実際にそこに赴いて、炊き出し隊(避難所での炊き出しのサポート)、あそび隊(避難所の子供たちと遊ぶ)、ハートをほぐし隊(老人や子供の心のケア)、り災証明(罹災証明書発行の手伝い)などの各部門に分かれて活動した。
しかし他方で、看護師・介護士・アマチュア無線取得者など何らかの資格を有するものに対しては積極的にアプローチし、「あなたは現地で必要とされている。存分に活躍してきてほしい」などと言って、必要以上にやる気を起こさせるようにしていた。そして、その最たるものが介護士の3人組であった。
介護士の3人は、介護の専門学校の卒業を間近に控えていた。そのため技能についてはそれなりに自信があり、ボランティアを行なうに際しても、自分たちの能力が生かせる所はないかと探していた。そんな時に見つけたのがファミリーであった。
彼らに対して、事務局では、ちょうどこうした人材が必要とされた時期だったので大歓迎であった。特にケアは、他の仕事に比べてますます重要になってきていたので、それをサポートする人材は喉から手が出るほど欲しかったのである。そこで、彼らを「介護専門部隊」として特別扱いし、ケアに全力を注げるよう配慮した。また、彼らもその期待に応えるべく「介助プログラム」を作成し、現地にFAXで送った。そして、3月1日の夜、意気揚々と現地に向かったのであった。
だが、現場はそのような期待を裏切るものであった。状況は落ち着きつつあり、それに伴って仕事も定型的なものとなり、かなり楽になっていた。しかも彼らが到着した頃は人数的にもまだかなり多く、20人近くいたのだ。そのため、「介助プログラム」は採用されなかったし、到着した日は、前日に仕事の割り振りをしていることもあって仕事がなく、状況も把握できていなかったから、ろくに活動できなかったのである。
こうしていきなり出鼻を挫かれた3人であったが、ちょうどその頃、ケアでは保健師への引き継ぎのために資料作りを始めようとしているところであった。この問題は、ケアを保健師に引き継ぐにあたって、個人で来ていた看護師と、ファミリーから派遣されていた看護師とで話し合った結果、今のままではデータが不足しているので、資料を新しく作り直し、生年月日、収入源、現病、通院先、ADL(日常生活動作)、福利厚生の利用等のデータを集める必要があると考えたために生じたことであった。そこで、彼らにもその話を持ちかけたところ、彼らにしても、もともと同じような資料を作ろうとしていたので、それは必要だと思われたし、活動のやる気を取り戻す絶好のチャンスでもあったのだ。こうして、彼ら3人と看護師1人(もう1人は2日に帰ってしまった)の4人が中心となって、3日より資料作りを行なうことになった。
だが、この資料作りに関しては、他のボランティアとはほとんど話し合いの機会を設けずに始められた。というのも、彼らを含めて、ケアに詳しい人はもちろん、ファミリーの人数自体も、12日の祭り以降急激に減少することになっていたので、早期に資料を完成させねばならず、十分に話し合う時間などなかったのだ。そのため、基本的には介護士と看護師ほか、それまでケアを多くやっていた人たちだけでケアの巡回と資料作りを行なうようにしよう、と考えたのである。
そこで、その日のミーティング時にこの方針を伝えるとともに、引き継ぎ用の用紙も見せて、みんなの理解を得ようとした。が、ほとんどの人にとっては「寝耳に水」の話であったので、ケアのやり方を巡って議論となった。特にこの時には、ケアはかなり重要な意味を持つ仕事になっていたので、それが他のメンバーの知らない所で勝手に動き出しているというのは、ファミリー内のみならず、本部との関係においても好ましからざることであったのだ。それに、これまでは話し相手などになり、継続的に訪問することで信頼を得、安心感を与えることができたのに、資料を作るためとはいえ、対象者に調査のような聞き方をすれば、相手に著しい不信感を抱かせてしまうのではないかと懸念された。さらには、介護士などたかが1週間程度しかいないのに、今までのケアを全面的に変えて資料を作ることで、今後活動に関わる人が対処できなくなるのではないかと考えられたのであった。

問題になった引き継ぎ用紙
こうして両者の言い分は決定的に対立し、激しい議論の応酬となった。介護組にしてみれば、調査するような聞き方をするつもりは毛頭ないし、今後についてもちゃんと申し送りをするつもりであった。それに、自分たちなら大丈夫という自信があった。しかし端から見れば、紙に書き込んでくれと言われたら、良くわからない人が行けば調査のようになってしまうだろうし、そもそもファミリーのメンバーには、せっかく東京から来たのだから、1度はケアを経験してほしい、という考えも強かった。そのうえケアは紛れもなくファミリーの仕事であるので、皆が基本的なことを把握している必要があり、彼らだけのものにしないことが必要であった。このようにして、対立はなかなか収まらず、議論は長く続いた。
しかし、2~3時間も話し合ううちに、お互いに相手の立場が理解できるようになってきた。リーダーを始めファミリーのメンバーとしては、引き継ぎのために資料作りが必要なことはわかっていた。だが、皆に相談しないで独断で事を行なったのは明らかに勇み足であった。それに、これまでのケアを変えていくというやり方は、非現実的な選択でもあったのだ。
この話し合いの結果、結局ケアは今まで通り続けていくことになったが、引き継ぎ用の資料作りは看護師と介護士で行ない、進み具合などはミーティングの時にみんなに報告するということで双方合意した。こうして、この対立も何とか回避できたのであった。
その後は、これまでのやり方を前提にした上で、ケアをより良いものにしていこうといくつかの改善が試みられた。
まず問題になったのは、日毎の巡回対象者を決める方法であった。これまでは、看護師の方が、3日に1回とか、1週間に1回とか、対象者ごとに訪問のレベルを決めていたので、それに従っていれば事足りたのだが、巡回記録が多くなるにつれて、明日誰の家を回るのかを決めるのにいちいち多くの記録を見なければならず、莫大な手間がかかるようになってしまったのである。そのため、その日にどこを回ればいいのか一目でわかるような表が必要になった。その点を話し合ったところ、その必要性は一様に認められたが、それをどのようなものにするかは意見が分かれた。そこで、さらに突っ込んだ話し合いをした結果、表にはケアレベルに従って訪問したら黒丸を記入し、その際に次回訪問予定の期日に白丸を記入するようにして、あらかじめ巡回する所がわかるようにした。そして、こうしたやり方を踏まえて、巡回ローテーション表が作成された。
また、ケア対象者へのさらなる情報提供として、社会福祉協議会の入浴サービスもお知らせしようとした。これは、ケア対象者の中に入浴希望者が多いことから行なおうとしたものであったが、協議の結果、これについても必要であろうということで、松下の作った「営業しているお店の情報」などとともに巡回時に配布し、説明することとなった。
こうした取り組みの甲斐もあって、ケアはより充実したものになった。そして、他の所と比べても遜色のない、かなり充実したケアが行なわれるようになっていた。そのため、周辺の避難所の代表が集まって会議をする時などには、ファミリーのケアは高く評価され、これから巡回ケアを行なおうとしている所にノウハウを教えるまでになったのである。このように、ケア活動は、ファミリーは言うに及ばず、本部にとっても、もはや欠かせぬ活動となっていた。
一方、この時期はボランティア活動自体が微妙なものになっていた。辺りは落ち着きを取り戻し、仕事は減っていたが人はむしろ増えていたので、リーダーなど一部の人を除けば、やることさえやれば結構暇な時間が多くなっていたのだ。こうした時には、自分から仕事を探せ、と言われていたが、被災者の自立のことを考えると下手に手を出すわけにもいかなかった。そのため、仕事を探すといっても、ドブ掃除や救援物資の在庫整理、ゴミ捨てぐらいしか行なえなかったのである。それでも、力仕事は単発であったりしたから、男手はそれなりに必要とされたが、それ以外は特にめぼしい仕事もなく、中身もマンネリ気味であったので、暇になることがままあった。こうして、暇そうなボランティアが目につくようになっていたのだが、ボランティアの中にも「こんなことをするために、わざわざこんな所まで来たのではない!」という思いが次第に高まり、不満が強まっていった。
そして、この不満は適切な指示を出してくれないリーダーへとぶつけられることになる。ボランティアとしては、暇を解消することはもちろん重要であったが、ミーティングで分担する仕事が本部の指示に従うだけであるなど、活動にやり甲斐を見い出しにくい状況にもあったから、それらを解決して、もっと自主的に活動できるようにしてほしい、と訴えた。また、仕事を探すにしても、どこまでやって良くてどこから控えるべきなのかの基準が曖昧すぎる、との批判も出た。
これに対して、リーダーの吉川大介は、ファミリーが本部の下で活動している以上、2度3度と同じ轍を踏むわけにはいかなかったから、活動に際しては本部の意向を最優先にするべきだとして譲らなかった。そして、仕事をしたいのなら、リーダーの所まで来て仕事を取りにきてほしい、と主張した。それに、本部の指示に従うといっても、気になったことなどがあればどんどん問題提起して構わないのであるから、その意味では自主的に活動できるはずだ、と話した。また仕事を探す基準については、特に決まった基準はないので、各自常識で判断してほしい、と言った。
こうしてボランティアとリーダーとの議論は尽きなかったが、徹底的に話し合うことによって、なんとか納得し、問題はひとまず回避された。だが、ボランティアが余っているという状況に変わりはなく、彼らの不満を解消できたわけではなかった。
こうした中で、本部は、12日の祭りを控えて、ボランティアとともに着々と自立への準備を進めていった。
まず4日には、救援物資として送られてきていた自転車を整備し、鍵の有無、走行状況等をチェックするとともに、自転車置場の整理も行なった。そして、これまで放っておいた校庭の自動車についても、放置車を追い払い、利用者が使いやすくなるよう校庭の西側を駐車場として整備し、利用を登録制とすることにした。そのため、これまで大雑把に置かれていた車の置場を白線で区分けし、駐車番号を石灰で書いていく一方、駐車許可証を作成して、利用者に登録を呼びかけた。登録が一通り済んでからは、毎日、朝・昼・夜の3回に渡って駐車場をチェックし、ナンバー・車種・色・状況などを調べて、動かない車や登録していない車がないかを確認するようにした。
また、食べ物以外の物資が置かれていた体育倉庫等についても、徐々に整理していくことになった。そこで、7日には久しぶりに衣類のガレージセールを行ない、あるだけ出して必要な物は避難者に持っていってもらった。そして、8日には皿・コップ等の瀬戸物を種類ごとに仕分けするとともに、大量に余っていた石鹸やトイレットペーパーなどを袋に詰め、各教室や体育館・講堂を回って避難者に配った。さらには給食室の掃除、冷蔵庫内の整理、本部内の片付けなども行なわれた。
そのうえ、校舎内の水道の復旧に伴い、震災後から来ていた給水車が打ち切りになったので、たまっていた水をポリタンクに入れて給水タンクを片付けるとともに、救援物資で来ていたミネラルウォーターもいっぱい出して、どちらも必要なだけ避難者に持っていってもらうことにした。他方、行政に働きかけて校庭内に仮設校舎(実際は兼仮設住宅)を建設することになったので、その場所を空けるために車を移動させるなどした。そして、まもなく工事が開始された。
それに加えて、本部の名前や電話番号等が書かれた名刺が作られて、ケアだけでも40~50枚は配られた。そして、校内の避難者名簿についても今一度校舎内を回って調べて、新しく作り直された。その結果、避難者は350人弱まで減少していることがわかった。また、魚崎小のミニコミ紙として祭りの日から週刊で『せせらぎ』を発行することとなり、ファミリーも校外老人ケアについての記事を書くことになった。
こうして、ボランティアの協力の下、本部の長期的な体制作りは順調に進んでいった。

衣類のガレージセール。入れ替え制で行なった
ところで、この頃になると職場を再開する所が増えていたが、それは本部スタッフにとっても例外ではなかった。なんと、4本柱のうちの2人までもが、仕事が始まるのに伴い一部本部から抜けざるを得なくなったのである。そのため、その分をボランティアが負担することになり、これまで本部スタッフに任せていたスタッフ・ボランティア用の食事作り、配給のためのスープ・みそ汁作りについてはファミリーが引き継ぎ、朝・昼・夕食を余った物ないし賞味期限の近い物を使って用意するようになった。また家庭科室の鍵の開け閉めについても、ファミリーが担当することとなった。
こうなると、ボランティアはさらに朝早く起きなければならなかった。というのは、朝食の準備は朝の6時からであったし、家庭科室の開鍵も6時半だったからである。それに、5時半にはパンや飲み物の搬入もあったし、朝食の配給も6時半からだったのだ。そのため、ミーティングで話し合いをし、寝坊しないように早起き係を1名決めて、その人が他の人を起こすことにした。
しかし、こうしたことは案外辛いことであった。それまでは、基本的には朝食の配給に間に合えば良かったのだが、寒い中1時間近くも起床時間が早まったのである。それに、3月も5日過ぎになると、人が減り始めていたのに仕事は意外と減らずにあり、特にケアの資料作りが正念場を迎えていたこともあって、暇な人は減り、むしろ忙しくなっていた。特に2~3週間近くいる長期の人にとっては、疲労もたまっていてしんどいところであった。そのため一部FAXの報告書を出し忘れたりしたが、これも祭りが終わるまでの辛抱であった。
こうした中、次期リーダーと目されていた貝瀬和人は、毎日のFAX報告書だけでは活動の実態が国立の事務局に伝わっていないのではないかと危惧していた。というのも、状況の安定化に伴い、報告では「今日は風呂に入ってさっぱりした」などと、次第にボランティア個人の感想が大半を占めるようになっていたからである。それに、これからも円滑に活動を続けていくためには、現地と事務局との密接なコミュニケーションが必要不可欠であった。そこでその対策をいろいろと考えたが、活動状況が良く伝わるようにするには、その日の総括をするミーティングのノートを送るのが最もふさわしいとの結論に達した。そして、9日分より、これまで送っていた報告書とともにミーティングノートもFAXで送るようにしたのであった。
こうして、事務局にもより詳細な現地の様子が伝えられるようになり、ファミリーの活動はますます安定的なものとなった。
|