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連隊館震災ボランティア第 I 部 活動の軌跡
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震災ボランティア:第 I 部 活動の軌跡

2章 ハードからソフトへ

1.転換期

 信頼回復のために

 大介が到着したのは、20日の夕方前であった。約10日ぶりに現地に戻ってきたのだが、本部の人も温かく迎え入れてくれるなど、緊迫した雰囲気はあまり感じられなかった。

 だが、夜のミーティングになると様子は一変した。本部のファミリーに対する不信感は根強く、とりわけリーダー不在時のことを巡っては、様々な注意を受けた。事態は、最悪期を過ぎていたとはいえ、今だ予断を許さない状況であった。

 そこで、本部ミーティングの後、今後のことについてファミリー内で話し合いを行なったが、とにかく本部との信頼関係を回復しないことには、この先ここでの活動を続けていくことは不可能に近かった。そのため、大介がファミリーのリーダーとして本部入りし、ファミリーと本部のパイプ役となって関係修復に努めるとともに、土志田がサブリーダーとしてファミリー内をまとめていくことになった。また、本部事務の手伝いにも人員を派遣して、より安定的な関係を結べるように心掛けた。

 一方、これまでケアを中心になってやってきた元看護師の方が明日帰るというので、その引き継ぎも問題になった。ケアは、これまでの10日余りの取り組みの甲斐あって次第に信頼を得るようになり、訪問先のお宅に上がらせてもらっていたりしていた。しかし、これからはこうした"プロ"はいなくなるので、円滑に活動を続けていくためには申し送りは不可欠であった。そこで彼女は、まず各家庭の様子がある程度わかるように、ケアでの印象や訪問頻度などを書いたメモを残すとともに、たまっていた資料を透明ファイル等に整理するなどして、活動が行ないやすいようにした。そして、活動の性格上、これから長期で活動する人が中心となる方が良いので、それに適した人に引き継ぎを行なった。

 また、それまではミーティングの際に書記を決めて記録に残すことをしておらず、不明確な部分、忘れ去られてしまう部分があったため、その反省を生かして、これからは本部およびファミリーのミーティングの時には内容をノートに記入するようにした。

 それとともに、よりボランティアらしい自発的・積極的な活動を行ない、本部との信頼関係を取り戻そうということで、21・22日にかけて、薪の所のガレキ拾いや焼却炉前の整備等を行なった。皆良いアイディアを出して頑張り、適切な処置ができたので、本部のファミリーに対する評価もいくらか高まったようであった。

 自立の難しさ

 ところで、この時期になると、被災者の間にも少しずつだが余裕が感じられるようになってきた。震災から1ヵ月以上が経過して、食べ物や飲み物といった物資の目処は何とか立つようになり、食事も炊き出しが毎日のようにあり、お風呂や洗濯機も基本的に使えるようになっていた。その上、職場の再開に伴い仕事に出ていく人も増え、当面の生計に見通しがつきだすなど、少なくとも表面的には日常生活が落ち着き始めていたのだ。そのため、自発的にトイレ掃除をする人も出てきていた。それに、学校が始まってから1週間程経って、それまであまり外で遊んでいなかった子供たちも次第に活発に遊ぶようになり、雰囲気が明るくなってきたのであった。

 こうした中で、本部としても、避難者の自立を促進するために徐々に手を引いて、避難者自身でできることはやってもらうことにした。そこで、25日には避難者との会議を開いてそうした方針を伝えるとともに、3月12日に復興祭を行ない、その後に一般食のカットに踏み切ることとした。また、とりあえずトイレ・風呂の掃除を避難者にもやってもらおうとした。そして、衛生上の問題から28日には一斉清掃を行なうことにしていたが、その時の協力も呼びかけた。しかし避難者の間には、ボランティアがやってくれるならやってもらおうという意識も根強くあったので、反応はまちまちで、この試みは必ずしもうまくはいかなかった。

 一方、本部は本部で近隣の避難所間でJ-NETという情報ネットワークを作るなど、校内の復興から東灘区の復興に力を入れ始めていたので、校内が以前に比べて手薄になっていた。だが、校内の避難者は、そうした動きについていけずにいた。

 そして、こんな時に、2月いっぱいで医務室が撤退することになった。これは地元の医療活動の妨げにならないようにとのことだったが、撤退は時期尚早に思われた。というのは、確かに3月から学校の目の前にある東灘診療所が24時間営業になるとはいえ、この時期にはまだ避難者が大勢おり、医務室の利用者も多かったうえに、診療所の方も忙しく、とてもじゃないが往診のできるような状態ではなかったのである。それに、震災から1ヵ月以上経っていて校内の衛生状態も良くなかったので、いつ変な病気が発生するかわからなかったし、地元の医者も皆被災者なのに、そんなに負担をかけるのはおかしいと思われたのである。そこで、本部は市に対して抗議したが、結局覆ることはなかったのである。

 このように、この時期には生活の落ち着きが見られ始めていたが、一方で、自立に向けての理想と現実のギャップは埋まらず、しかも仮設住宅の建設が遅れて入居の見込みが立たないなど、先を考えると苦しい時でもあった。こうした状況において、ボランティアの果たす役割も、これまでのマンパワー中心のハードの提供から心のケアなどのソフトの提供へと、すなわち量から質へと変わっていったのである。

 需要と供給のタイムラグ

 しかし、ボランティアの派遣を決定するのは実際に現地に赴く時よりも前なので、その時々の要望に即座に対応できるわけがなかった。そのため量から質への転換と言われても、事務局では派遣体制をなかなか整えられなかったのである。しかも、この前の時期、すなわち2月中旬頃は、ローラー作戦やケア活動、それに様々な力仕事など仕事がまだ山のようにあり、人手不足に悩まされていたので、派遣する方としてはできるだけ人を送るように対応していたのである。

 こうして、この時期にはボランティアが大勢来るようになっていた。ファミリーはだいたい15~20名程を常時派遣していたし、松下も、日帰りの人が多かったので一定はしなかったが、少なくても20~30人、多い時には70人ぐらいを送り込んできていた。それに個人ボランティアも何人かいたから、ボランティアはかなりの数にのぼった。しかも、23日から1週間程は、本来身障者介護や子供相手の活動を中心に行なっている東京のボランティアサークル「うんどうぐつ」も来て、様々な活動の手伝いをしていた。

 こうした大量のマンパワーが効果を発揮したのは、28日の一斉清掃であった。このときは、ファミリーは西校舎を、松下などは南・北校舎等を担当し、それぞれの教室ごとに担当も分けて避難者と一緒に掃除をした。そして、校舎内の清掃はもちろん、布団・マット干し、余分な机・イスの持ち運び等が実行された。中には出かけている避難者もいたが、ボランティアの大量動員により、予想以上に早く終えることができたのであった。

 このように、ボランティアが増えたことで、効率の良い、そしてきめ細かい対応が可能となったが、その反面で、どう考えてもボランティア過多になっていた。

 こうなると、様々な面でこれまでの状況に変化が生まれてきた。まず、ボランティアの増加に伴い、控え室が理科室だけでは収まりきらなくなってきた。そこで、とりあえず19日より女子は西校舎の市民図書室で寝るようになったが、これではミーティング等何かと不便であるので、23日より理科室の隣にあった理科準備室が使われるようになった。また活動に余裕ができたので、これまでの活動でたまり、散らばっていた資料の整理も行なわれた。それに、これまであまり行く暇のなかった風呂も大勢で行けるようになった。さらには、ボランティア間での交流も盛んになり、和気あいあいと活動できるようになった。

 こうして、ボランティアの増加により、活動に余裕を持って対応できるようになっていた。そして、こうした中で、被災者の自立のためにボランティアとして長期的にどうあるべきなのかを真剣に考えていかざるを得なくなったのである。

自衛隊風呂の写真
灘高の自衛隊風呂。4月中旬まで開いていた

 長期的な視点に立って

 ファミリーとしては、いちおう半年は支援を続けるつもりでいたが、学生ボランティアが主体であることを考えると、4月以降の見通しは立たず、心もとない状況であった。そこで長期的に、地域の助け合いにより被災者の自立が達成されるよう、活動のあり方を考えていくことになった。また現地では、この先震災への関心が薄れていくのに伴い、救援物資の先細り等が懸念されていたので、それに備えての対応も必要になっていた。

 こうした流れを受けて、まず24日より、日用雑貨の配給を時間を決めて行なうことにした。それまでは、原則的に必要ならいつでも持っていって良いことになっていたが、震災から1ヵ月以上経ち、救援物資の量にも陰りが見え出したので、このように対応したのである。そこで、午前中の9時から10時半までは生活用品の配給を行ない、カイロ、石鹸、歯ブラシ、歯磨粉、箱ティッシュ、ポケットティッシュ、ウェットティッシュ、トイレットペーパー、ビニール袋などを、1人いくつといった制限を設けた上で、必要なだけ持っていってもらうようにした。そして、午後の1時半から3時半まではお菓子類の配給を行ない、ミネラルウォーター、ウーロン茶、ジュース、クッキー、チョコレート、乾パンなどを、やはりある程度の制限を設けて配給するようにした。

 また、児童の登下校時の安全確保のために通学路の立ち番もやっていたが、それもPTAと協議した結果、ボランティアは24日をもって終わりとし、それから先はPTAの人たちが引き継ぐことになった。

 他方、ケアについては、今後も長期的な活動が必要とされていることから、本部の指示により保健師への引き継ぎを検討することになった。保健師は既に校内の巡回はしていたが、校外についてはあまり行なっていなかったし、ファミリーは校外が中心で、校内は内回りをやっていただけだったので、連絡を取り合う必要があったのだ。そこで、23日よりこちらに来てもらい、引き継ぎに向けての協議を行なった。そしてその結果、これからはお互いに情報交換することとし、校内のケアについては、しばらくは巡回時にファミリーのメンバーも同行することになり、27日から一緒に校内ケアを行なった。また校外のケアについても、一緒に外回りをしてもらったりしたが、これを保健師に引き継ぐとなると資料が不足しているように思われた。というのは、ファミリーとしては信頼関係を損ねないよう、調査のようなことはあまり行なっておらず、個人資料も詳しくは作っていなかったのである。そこで、この先必要な資料作りを行なうことになった。

 ところで、この時期のケアは至れり尽せりであった。まず22日には「しあわせの村風呂ツアー」が催された。この時は前日まで人数がわからなかったので、希望者には慌てて話しに行くといった状況であったが、それでも参加した方には満足していただけた。また普段の巡回の時でも、おかゆなどの食事を配ったり、頼まれた買い物を行なったりしていた。しかし、その一方で、過剰な介護をやり過ぎてはいないか、という問題も出てきた。特に松下は日帰りのボランティアが主流であったので、どうしてもいろいろなことをやってあげようと考えがちであった。しかしながら、目標はあくまで被災地の自立復興であるので、行き過ぎのケアは控えるべきであった。

 こうした中で、継続性が要求されるケア活動の性格上、日替わりの松下よりも、同じメンバーが比較的長期でいるファミリーの方が老人ケアには適していると考えられるようになった。そこで、これまでケアは松下とファミリーとで二分されていたが、本部と松下の提案により、2月末からはファミリーが全て担当することになり、その代わり、内回りは松下が行なうことになった。

 そして3月1日には入浴サービスが実施されたが、この時には前回の反省を生かして事前に連絡をするなど、うまく事が運んだ。今回は鳥取からワゴン車2台で来てもらい、学校の保健室で浴室を2つ設けて行なわれたが、来てくれた人たちが非常に手際良く入浴の手伝いをしてくれたので、もっと人を呼んできてくれと言われる程早く終わり、8名程の対象者にも喜んでもらえたのであった。

 このように、この時期には活動に変化が見られた。単なる救援活動から、自立への支援を目指した活動へと変わってきたのである。こうした中で、松下は大量のボランティアを使って近隣の開いているお店の情報を集めるようになった。一方ファミリーは、これまでの仕事に加えて、生活上大きな位置を占めるゴミの分別に取り組むこととなった。

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