国立市職員組合の人たちは、魚崎とは違う場所に行くことになっていた。そのため文隆は、途中魚崎小に寄ってもらい、そこで降ろしてもらった。こうして、10日には思い出の地に再び帰ってきたのである。
しかし、現地に着いてみると何やら様子がおかしかった。そこには、かつて来た時のような楽しい雰囲気はなく、何やら緊迫した空気が流れていた。そして、ファミリーと本部との関係もいつの間にか悪化しているようであった。

ボランティア用の名札
確かに、この時期にはいろいろな変化が起きていた。
まず本部は、救援物資として大きなテントを手に入れたので、校庭にそれを建てて、教室からそこに移動した。また、ボランティア用の名札ができたのもこの頃であった。そして、本部スタッフ・ボランティア用に余った食材から食事を用意するようにもなっていたし、校内に仮設風呂も設置され、炊き出しも多くなっていた。しかし、この非常事態の中で、本部は今だにしっかりとした体制を築けていたわけではなかった。
一方ファミリーとしては、在宅老人のケア(「外回り」)も始まり、力仕事の他に配給の手伝いや内回り、外回りが仕事として定着しつつあった。だが、この頃には最初の派遣隊の人たちが皆帰ってしまったため、「ボランティアをしたい」という思い以外は何の接点も持たない人たちだけで活動していかざるを得なくなったのであった。
そのため、本部とファミリーのどちらもある意味では不安定であった。こうした状況においては、いつトラブルが起きてもおかしくはなかったのである。
事の発端は食事の配給にあった。
食事は朝・昼・晩と校内外を問わず配られていたが、用意された救援物資にも数に限りがあるので、毎回全ての人に行き渡ったわけではなかった。特に、行動の遅い老人や忙しくて時間通りに来られない人には渡せないことが多かった。しかし、物資自体は行政から毎日定期的に送られてくる分が足りなくなるだけで、蓄えはまだ山のようにあった。そのうえ、スタッフとボランティア用に作られる食事では、多過ぎて余ってしまうこともあったのだ。
こうした状況は、ボランティアにとっては大いに不満であった。自分たちは、困っている人を助けたい、と思ってわざわざ東京から来たのに、現実には物資が余っているのにもかかわらず、本部の意向でそれも出せず、それでいて自分たちの食事はちゃんと用意され、時に余っていたのである。これでは何のために来たのかわからなかった。被災者のために来たはずなのに、実際はただ本部の指示に従っているだけ‥‥この理想と現実のギャップはボランティアを大いに悩ませた。
さらに、内回りで避難者の要望や意見を聞いて回っていると、口々に本部への不満が出てきていた。避難者にとっては、本部は行政のようなものであったから、あれもしてくれない、これもしてくれない、と文句を言って不満のはけ口にしていたのであろう。しかし、ボランティアはこうした要望に1つ1つ応えていきたいのに、それもできず、心の葛藤に苦しまされた。そして、それは次第に本部への不満に転化していき、ついに批判が出始めたのである。
だが本部にとってみれば、500人もいる避難者1人1人の要望に応える程の余裕はなく、それよりも、全体の復興に向けて自立を押し進めていかなければならなかった。また物資についても、行政からのものはいつなくなるかわからなかったし、一般のものはまもなく減少することが明らかだったので、むやみに放出するわけにはいかなかった。それに、被災者の中には配給に2度3度と並ぶ人もいたし、文句だけ言って自分では何もしようとしない人も多かったので、不信感を募らせていたのである。
こうして、ボランティアの思いと本部の意向は決定的に対立し、両者の不満は頂点に達した。こうした中で、文隆は本部とファミリーのパイプ役になって関係の修復を図ろうとしたが、それは容易なことではなかった。しかも国立市職員組合の人たちが行った先ではボランティアがいっぱいで仕事がなく、やむなく魚崎小に来たので、彼らとの橋渡しもこなさなければならず、その対応に追われた。その結果、始めてから1週間程で早くも活動の危機に直面したのである。

食事の配給風景
この事態は国立にもすぐに連絡されたが、事務局ではさすがに驚きを隠せなかった。せっかく立ち上げた活動が終わってしまうのか‥‥そう考えると居ても立ってもいられなかった。
そこで翌11日よりコーディネーターとして現地に向かう予定であった下村にこのことを伝えて、事態の打開に尽力するよう要請するとともに、本部には彼のことを伝えて、ぜひ本部の4本柱に加えて5本柱の1人として入れてもらうよう懇願した。幸い本部の了承を得られたので、事態の収拾は彼の手に託されることになった。
11日になると、阪神線が青木から魚崎より2つ先の御影まで延びたので、JR線が8日に芦屋から住吉まで開通したのと合わせて、大阪方面から魚崎への交通の便は格段に良くなっていた。こうした中で、彼は現地に赴いたのであった。
彼にとっては、当面は本部との関係修復はもちろんだが、その他にもファミリー内部でのまとまりの強化や松下との役割分担のあり方など、課題が山積みであった。そのため、彼は現地に着いてまもなく、本部の人たちや松下、およびファミリーのメンバーと会って現在の状況を聞いてゆき、どこに問題があるのかを探るように努めた。そしてその結果、まずはファミリー内部の意見をまとめることが先決であるとの結論に達したので、さっそく本部との関係のあり方について、ファミリー内で話し合うことにした。
そこで、12日の夜に、この件に関してファミリー内でミーティングを行なった。
下村に言わせれば、この非常事態の中では行政がほとんど機能していないのだから、本部がある程度行政の代替機能を果たさざるを得ないし、ボランティアも本部の下で活動している以上、その一端を担うのは当然のことであった。そのため、ファミリーとしてはあくまで本部の意向に従い、被災者の自立に向けて一致団結して効率的に活動していき、本部の信頼を得るようにすべきだ、と主張した。
これに対して、ボランティアは単なる「便利屋」ではないのだから、本部の指示にただ従っていくだけではなく、もっと自主的に活動して、時間を惜しむことなく被災者の要求に1つ1つじっくりと応えていくべきであり、そのためには何よりも個々人の心情に従って行動するべきだ、との反論が出た。
こうして、全体としての規律を守るべきか、それとも個人の心情を重んじるべきか、ボランティアの意味まで突っ込んだ議論が2時間にも渡って繰り広げられた。
が、長時間話し合っても結局結論は出なかった。しかし、みんな言いたいことを言ってすっきりしたようであった。そして、これを機にファミリーの中に少しずつ連帯感が生まれ、仲間意識も芽生えて、文字通り「ファミリー」になっていったのであった。