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連隊館震災ボランティア第 I 部 活動の軌跡
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震災ボランティア:第 I 部 活動の軌跡

1章 救援!

1.いざ現地へ

 衝撃の現場

 2月3日未明、夜行バスに乗って現地に向かった先発組は大阪に到着した。しかし、そこには震災の傷跡はどこにも見られなかった。建物に被害など見当たらず、鉄道も道路も通常通りだった。お店も普段と変わりなく、日常そのものであった。

 だが、大阪から神戸に向かうと、震災の影響を被らざるを得なかった。この時点で、鉄道は阪急が西宮北口まで、JRが芦屋までしか開通しておらず、東灘区にすら到達していなかったのである。しかし、幸いにも阪神は、東灘区の青木まで開通していた。青木から魚崎へはたった1駅であり、十分歩いていける距離であったから、これを利用しない手はなかった。

 こうして現地に向かったが、電車に乗って外の風景を見ていると、最初こそ大きな被害は見られなかったが、甲子園を過ぎた頃から徐々に震災の凄まじさが明らかになってきた。1階が潰れた家屋、傾いたビル、ガレキで塞がれた道、起伏ができて通れない道路、火災で焦土と化した街、数多くのテント、避難所‥‥現場に近づくほど、被害は大きくなっていった。

 そして、魚崎小に向けて歩く途中でも被害は甚大なものであった。魚崎地区は約8割近くの家屋が全半壊するほどの被害を受けていたから、当然といえば当然である。倒壊した家屋やガレキを横に見ながら進んでいき、いやが上にも緊張感は高まっていった。

潰れた車の写真
建物の倒壊で潰れた車

 現地に着いて

 魚崎小には8時半頃到着した。だが、対策本部らしきものは見当たらない。目印もない。ただ目に入るのは、校庭にあった、雑然と置かれた車といくつかのテント、大量のバナナの空箱、それに大きなたき火であった。たき火の周りには、被災者とおぼしき人たちが暖をとっていた。2月初めは本当に凍てつくような寒さであり、避難所生活においては、これでもあるだけ救いであったのだ。

 校内を歩いてまもなく、本部が見つかった。本部は教室の一室に設けられていたのだ。そこで、さっそくその場の人に自己紹介し、活動についての簡単な説明を受けることになった。主な作業内容としては、トイレ前のポリバケツの水の補充、上水運搬車の給水の援助、ゴミの片付け、救援物資の搬出入と配給等があるという。だいたい事前に言われていた内容と同じで、力仕事がほとんどであった。ここにはまだ組織的なボランティアはいなかったが、個人で駆けつけたボランティアが何人かいる、という状況だった。また、ボランティアの腕章・名札等はなかったが、救援物資にあった耳あてがその代わりを果たしていた。

 本部は、高砂氏の他3名程のスタッフが中心になって活動していた。彼らは皆被災者であり、これまで地域住民の生活を確保するために尽力し、物資集めや行政との折衝などに奔走していた。行政からの連絡員も入ってはいたが、基本的に自立した自発的な組織として避難所の運営を行なっていたのであった。

 ちなみに魚崎地区では、3~4年前から地域の活性化を図るために自治会が様々なイベント等を始めており、そういった活動の経験が今回の震災で生かされたようだ。というのは、高砂氏自身、施設運営委員会の副会長を務め、学校などの施設を住民に開放していくといった活動に関わってきたため、退避所に指定されていた魚崎小の鍵を持っており、震災後一番初めに学校の鍵を開けることができたのである。そして、彼はそのまま避難所の本部長になったのだ。なお、東灘区役所の職員が魚崎小に初めて来たのは、震災から1週間後のことだったという。

 内容を把握したところで、一行は理科室に向かった。寝床を確保するためである。行ってみると、床には細かいガラスの破片が飛び散っていたので、すぐに掃除を始めた。これが現地に来て初めての仕事であった。それが終わると、荷物を置くなどして、いよいよ活動の準備に取りかかった。

 行動開始!

 準備を済ませるとさっそく行動を開始した。といっても、この時期には活動のマニュアルなどなかったので、自分で必要な仕事を探していくより他になかった。

 震災から半月経っているとはいえ、やるべきことはたくさんあった。特にこの時はまだ水道が通っていなかったので、飲料水・生活用水の配給もしたが、トイレ用水の運搬なども行なわなければならなかった。これは、ポリバケツに水をたんまり入れてトイレの所まで運ぶという非常に辛い重労働であるため、特に2階まで運ぶとなると極めて大変であった。また救援物資も、不定期に、頻繁に、大量に入ってくるので、その搬入の作業に追われた。

 そうこうするうちに昼となり、昼食の配給時間になった。校内のみならず校外からも多くの人が来ているので、用意だけでも容易ではない。まず救援物資で運ばれているパンを出すとともに、昨日作った粕汁・汁粉の残りと缶飲料(お茶)を温めてから出した。外はとても寒く、お湯の配給などない時であったから、このサービスはとても好評であり、以後継続していくこととなった。

 配給が終わり、食事を済ませると、また元の作業に戻っていった。ここは物が豊富で、全般的に見て衣食住は充実しているが、その分物資の配給・整理やゴミ捨てなどでボランティアの協力が必要であった。それに、給水車は2時間おきに来て水を入れていくので、これを手伝わなければならなかったし、トイレ用の水もすぐに使われてしまうので、1日3~4回程度は補充する必要があった。そのため、次から次へと仕事が出てきて、休む間もないほどの忙しさであった。

 あっという間に日は暮れていき、夕食の配給時間になった。今度は、弁当に先ほどのお茶を再度温めて出した。幸い完配し、配給も行き渡ったようなので、本部の指示に従い、清掃して終わりとした。そして、夜間あるいは早朝に救援物資が到着する可能性があると注意されたが、他のボランティアなどとの全体ミーティングはないとのことであった。こうして、ようやく1日の任務を終えたのであった。

 交流を深める

 ボランティアとしては、本部スタッフや他の個人ボランティア、被災者などと交流を深めることも大切な仕事であった。特に「ファミリー国立」は無名の団体であるから、信頼してもらい、これからも活動を続けていくためには、しっかり仕事をするとともに、名前を売り込んで覚えてもらうことが必要であった。それに、現地の人と震災時のことやその他ざっくばらんなことを話すのは、いろいろな意味で勉強にもなるのであった。こうして雑談をしているうちに、夜も更けていった。

 雑談の後、最初のファミリー・ミーティングを行ない、1日の反省点などを出し合って、明日以降、もっと精力的に効率良く動けるようにしよう、と話し合った。そして、国立の方で現地の状況がわかるよう、FAXで現地の様子を報告することに決めていたので、「現地支援状況報告書」を作成し、以後原則として毎日送るようにした。

 活動初日は、こうしてまたたく間に過ぎていった。

 混乱期の活動

 翌日、朝食の配給を終える頃、後発組の3人が到着した。そこで彼らに仕事の内容を簡単に説明して、すぐに活動を開始した。基本的には、昨日の作業を中心にして、必要な所を見つけて現場判断で対応していった。しかし、人が増えたこともあって、活動はそれだけに留まらなかった。各所に矢印等のサインを設けて校内の様子をわかりやすくするとともに、掲示板を見やすく整理したり、明日の日曜日のボランティア増加に備えて校内地図のプリントを作ったり、トイレ掃除をしたりと、精力的な活動を行なった。また現地の人たちとも次第に打ち解け合い、仲良くなっていった。

 ところで、こうした活動は原則として本部の意向に沿って行なわれたが、この頃の本部の対応は統一性がなく、人によって発言あるいは指示が違っていたため、それに振り回されることもあった。例えば、救援物資の配給の際に数が足りなくなってくると、残りのものを出していいと言う人もいれば、もう出すなと言う人もいて、混乱していたのである。こうしたことは、本部は本部で区、あるいは市の対応に振り回されていた、また食料の入荷確保に専念していたことなどがあったので、ボランティアへの指示も不確実なものになってしまったのであろう。こうした混乱期には止むを得ないことであった。

 ファミリーはいらない?

 こんな時、新たな情報が入った。これから、月曜から金曜の9時から19時まで、松下電器労働組合の人たちが毎日10名程ボランティアとして来るというのだ。そこで、さっそく国立の事務局に連絡を入れた。それを聞いた事務局では、その真意を考えた。いったい、これはどういうことなのだろうか、と。確かに、人が増えれば仕事の負担も減るので、水の配給や食事の配布、物資の搬出入などで日が暮れることもなくなり、被災者各個人の要求に対応できるような仕事もしやすくなるであろう。だが、もしかすると、確実な人足が得られたので、ファミリーを切って松下にその代わりをしてもらおう、ということなのかもしれない。不安に駆られた坂本は、早速現地に行って確かめることにした。

 5日に現地入りした彼は、すぐに状況を伺った。すると、派遣については、当分の間是非とも続けてほしい、とのことであった。全くの思い過ごしだったと気付いた彼は、ひとまず安心した。そして、次に松下との業務分担について協議を重ねたが、その際本部より、今後老人のケアなどを行なってほしい、との提案があった。本部としては、福祉事務所・保健所などの行政の動きが完全にストップしている中で、見落とされがちな在宅老人に目を向ける必要を感じていたし、ファミリーとしても、長期的な支援を考えていたから、それに適した活動を行ないたいと思っていたし、これから必要な活動であるのは明らかであった。そこで、とりあえずファミリーとしては、これまでの仕事に加えて、老人・障害者のケアも担当することとなった。

 このように担当を決めても、突然別の仕事が舞い込んでくることは間々あった。例えば5日の夜には、本部よりボランティアによる夜警および夜勤の要請があったので、全員それに応じた。夜警は校内見回りで、0時・2時・4時の3回、主として食料の盗難を警護するものであり、夜勤は物資の到着による搬入作業に備えているものであった。それぞれ分担して行なったが、夜の仕事は疲労の度合いを濃くしていった。

 安否確認の開始

 6日から、松下電器のボランティアが来始めたこともあって、本部の依頼で近所の独居老人を対象に現状の聞き取り調査を開始することになった。

 老人ケアについては、実は1月23日に、校内に避難している老人に対して食事面を中心に始めていたのであるが、その後校外ケアの準備にも取りかかり、平常時に独居老人の友愛訪問をしている民生委員に資料を提供してもらおうとした。だが、民生委員自身も被災して資料をなくしていたので、やむなく民生局から独居老人の資料を入手して、それをもとに氏名・住所を書き出したノートを作成したのであった。それによると、震災前に登録してあった老人は魚崎地区だけで182名もいたので、さっそくその人たちの現状を把握するために安否確認を行なうことになった。

 この調査は松下とファミリーとで分担することになっていたので、ファミリーは魚崎小より南側にあたる南町・西町・中町の108名を担当することになった(松下は北側)。そこで、4名を2つの班に分けて行なうことにしたが、自転車の数が少なかったので、自転車組と歩き組で始めることにした。そしてその際、これはあくまで調査なので仕事などの請負はしないことや、調査では特に水・食事の確認、体調のチェックをすること、調査結果を死亡・疎開(入院を含む)・避難所・健在・行方不明の5つに分類し、疎開者は後日再確認すること、不在でも隣人などに尋ねてできるだけ多くの情報を得ることなどを確認し、出発した。

 しかし、いざ調査してみると、家屋倒壊やガレキなどで道が塞がれて、家の特定が困難であったし、既に学校や病院・親戚等に避難しているなど、不在の人が多く、本人に会えたのは半数以下であった。それにたとえ本人に会えても、近所に近親者がいるので補助がいらないとか、全く見ず知らずの者の突然の訪問に恐れて玄関払い的な応対をする所もあり、容易ではなかった。そのため、留守の時には在宅時間を近所の人に聞いて再訪問し、面会するようにするなど、細かく対応できるようにしたが、やはり簡単にはいかず、この調査はしばらく続いた。

 避難所の様子

 一方ほぼ同じ時期から、校内に避難している人たちに対して、現在不自由していること、要望・不満などを聴いて回る調査も始めた(「内回り」)。これは、老人だけとは限定せずに行なったものであったが、避難者は体育館や教室などで寝泊りしており、基本的に居候的意識があるせいか、素直に発言する人はあまり多くなかった。しかし、ベビーカーがほしいとか、テレビをつけてほしいとか、暖房がほしいとか、病気のときに特別に配食してほしいとかいった貴重な意見も出るので、できるだけその要望に応えるようにした。だが、中には家がほしいという人もいて、言葉に詰まることもあった。

 また、この時期の避難者は、震災から20日くらい経っているにもかかわらず、今だ気持ちが落ち着いてはいないようで、気力も回復しているようには見えなかった。特に高齢の人の中には、ただ寝ているだけで、全く気力がなく、自ら何かしようとする気も見せない人が少なくなかった。自立が目標といっても、それは容易なことではなかったのである。

 魚崎は恵まれている

 このように、最初こそ大変であったが、松下が来るようになってから仕事の負担が減ったので、徐々に被災者の個別ニーズに対応するような活動もできるようになってきた。しかも、この時期から物資もほぼ定時に来るようになってきたし、炊き出しも多くなっていたし、水も一部で出るようになるなど、生活も改善されてきていた。

 それに、何といっても魚崎小は非常に恵まれていた。この地区で最も規模が大きかったため、物資は豊富に入ってきていたのだ。そのせいか、ボランティアにとっても、ここは恵まれた場所となっていた。というのは、他の所から来た人の話では、よそではいろいろと規制があって仕事がしにくいのと比べると、ここではそういったこともあまりなく、仕事のしやすい所だと言うのだ。こうした恵まれた環境の中で、ファミリーの活動も順調に軌道に乗り始めていた。

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