1月17日早朝、突然大地震が阪神地域を襲った。一瞬にして、多くの家屋やビルが倒壊し、鉄道・道路といった都市機能を支えるインフラは崩壊した。水・電気・ガスなどのライフラインも寸断され、方々で火事や土砂崩れが起こった。死者の数も、あっという間に数千人に達した。
こうした惨状を耳にしてから、あるいは目にしてから、多くの人々の目は、 テレビ画面や新聞で報道される神戸の事態に釘付けになった。そして、多くの人が「大変なことが起きてしまった」と思うと同時に「何かできることはないだろうか」との思いに駆られたのであった。そうした思いを抱いた1人に、後に「ファミリー国立」を立ち上げることになる坂本剛史がいた。
彼は、学生時代からボランティアとして様々な行事に参加している他、国立市公民館を拠点に活動する「障害を越えて共に自立する会」のメンバーでもあるなど、ボランティア歴は長い。そんな彼にとって、神戸という街は印象深い所であった。というのも、大学卒業後に就職した家電メーカーの研修先が神戸の東灘区であったのだ。3ヵ月間、家電品の修理や納品・御用聞き等の実習を行なう一方で、週1度の休みには、友人と連れ立って三宮や六甲山などによく遊びに行っていたものだった。そんな記憶に残る海と山の美しい街・神戸が、震災で壊滅状態だと知った時、当時無職だった彼にとって「とにかく行かなければ」という思いは必然的な選択であった。
そこで、すぐさまNHKが流していたボランティア募集ダイヤルに電話をしてみたが、哀しいかな、電話は通話中の音を鳴らすだけであった。その後も、テレビを見続けながら20分毎に電話をしたが、全く通じなかった。結局、3日間やっても連絡が取れなかったので、やむなく単独で神戸に向かうことにした。

震災直後の火災。魚崎南町にて
彼は知人数人に現地行きの決断を知らせるとともに、出かける支度を整えて、ついに1月20日の昼に出発した。そして、大阪まで新幹線で向かい、その後阪急の西宮北口から延々と岡本まで歩いて、かつて研修で使っていた寮に寄ってみた。しかし、そこは既に全員避難していて、もぬけの殻であった。近くの避難所であった本山第一小学校にも行ってみたが、ボランティアでごった返していたので、自分を燃え尽くせないと判断し、他の避難所を探して甲南大学、公民館、さらに3つの小学校を転々とした。だが、どこもボランティアであふれていた。
こうして散々さまよい歩いた末にたどり着いたのが、東灘体育館であった。そこは市の職員7~8人で、常時3名の24時間体制を組んで対応していたが、ボランティアはまだ誰もいなかったので、東京から来た彼を快く受け入れてくれた。だが、震災から既に5日経っていたとはいえ、状況は地獄だった。生活用水は国道1本隔てた魚崎中学校に汲みにいき、夜は真っ暗な中、ろうそくの灯1つで人々の安否確認をしなければならなかった。外では救急車とパトカーの緊急サイレンが絶え間なく流れていた。全てが現実とは思えない非常事態であった。
ボランティアの数は事足りていた。どこの避難所もボランティアだらけという印象であった。救援物資も山と積まれ、食べきれずに捨ててしまう状態だった。地区によって状況はまちまちだったようだが、少なくとも彼が回った地域は大変恵まれていたのである。しかし、問題はそれを効率的に管理・分配する指揮系統が皆無だったことだ。行政は完全に機能不全に陥り、ボランティア組織も効率的なボランティア派遣・活用という点で無力と判断せざるを得なかった。ボランティアもマンパワー、頭数の充実のみで、とにかく大きな組織経由では、東京からのボランティアは効率的に仕事ができないどころか、来ることさえもおぼつかないだろう、と考えられた。
そうこうしているうちに計画していた4日間が過ぎたので、彼は神戸の人々の懸命なまなざしに後ろ髪を引かれながらも、国立へと帰っていった。

東灘区中心部の地図
国立に帰ってから、彼は、今自分たちにできることは何か、と考えた。東京にも、神戸のために何かの役に立ちたいと思っている人たちはたくさんいる。義援金を送る、救援物資を送る等、様々な形で東京の人の気持ちも現地に送られていたのだ。しかし、そんな気持ちを持ちながらも未だ形にできないでいる人たちが相当数いるのはまず間違いなかった。また事態の長期化は必至なのに、それに対応できるボランティアの体制作りも不十分であった。現地に押しかけたボランティアが被災者の寝床を奪うだけの迷惑ボランティアになっている、などとマスコミで取り上げられるのを見ると、長期的な視点に立ってボランティアを送り込む体制作りが急務であった。それを実践するには、もはや自分たちで組織を作るよりなかったのである。
こうして彼は、強い決意を胸に抱いて、まず普段から出入りしている障害者の経営する喫茶店「わいがや」に行き、現地の状況を説明した。そして、次に「ファミリー」を経営する吉川和子のもとに向かった。
「ファミリー」は、国立の富士見通り沿いに昨年秋にオープンしたばかりの介護ショップである。そこでは、在宅で療養する方やその介護をする人の暮らしが快適・便利になるような介護用品を販売している。そして、その店の奥にはコミュニティルームが設けられ、障害者や高齢者、あるいはボランティアが気軽に出入りしていて、こうした人たちの「憩いの場」になっていた。また、ここを拠点に「わくわくプロジェクト」というイベント企画や手話サークルなどのボランティア・グループが活動しており、彼もそうした行事にボランティアとして参加していたので、神戸に出発するに当たっても事前に連絡を入れていたのであった。
彼はさっそく現地の様子・状況を報告し、さらなる派遣の必要性を訴えた。ちょうどその頃、彼女も「何かをしたい」と思いつつも具体的にどうしたらいいのか分からないでいたので、この提案に大いに賛同した。そして、現地への派遣スタッフを一定数確保するために、すぐさまボランティア活動で店に出入りしている若者たちにもその報告を聞かせることになった。報告を聞いた彼ら数名は即刻現地入りを決定した。彼らにとっても、この提案は「何かをしたい」という思いを形にする絶好の機会だったのだ。こうして、すぐに救援体制作りの準備に取りかかった。
もはや、潜在的に行きたいと思っていても行けない人々が大勢いることは疑う由もなかった。そこで「ファミリー」のコミュニティルームを提供してもらい、そこを本部とするボランティア派遣組織の立ち上げを決定した。そして、とりあえず吉川家長男の大学生、大介とその友人ら3名を2月の4日から7日あたりに派遣することにし、その旨の連絡を東灘体育館に入れ、先方の判断を待った。
一方、組織的な派遣体制を構築するためには、知り合い同士の狭いネットワークだけでなく、広く一般にボランティアを募集する必要があった。そこで、坂本はかねてから付き合いのあった国立市職員の兼松氏(社会教育部門を担当している)に協力してもらい、30日に2人で、朝日新聞社にボランティア派遣組織の立ち上げ記事を売り込みに行った。しかし、1月後半のこの時期では、既にかなり多くの団体が名乗りをあげていたらしく、記事としてはもはやそれほど価値がないので、紙面に余裕があれば載せる、というのが記者の返事であった。
返事は東灘体育館からもあった。それによると、31日時点で、その体育館の体制も職員のローテーションが確立するなどして充実してきており、とりあえず間に合っているとのことであった。しかし、親切にも近くの避難所に問い合わせて下さり、その結果、魚崎小学校において生活用水の運搬や給食の手伝い、救援物資の整理などを行なうボランティアの受け入れを希望していることがわかった。そこで早速、魚崎小の対策本部長である高砂氏と連絡を取り、現地の状況を伺った。すると、そこには600人程の避難者がおり、本部は様々な対応に追われて炊き出しや物資整理などの人手が足りないので、ぜひ来てほしい、とのことであった。ここに至って、ついに派遣を正式に決定し、とりあえず2月3日から男性3名、4日から保育士資格を持つ女性2名を6日まで送ることにした。そして、寝る場所としてガラスが飛び散って使われていなかった理科室を提供していただき、また食事も余った救援物資から出してもらえるということで双方合意した。ここに派遣の準備は整った。
2月になると、さっそく朗報がもたらされた。なんと、十数行ではあるが、朝日新聞1日朝刊の地方面に、ファミリーのボランティア募集の記事が載っていたのである。この記事はわずかであったが、その反響は大きなものであった。まもなく応募の電話がかかりだし、ファミリーではその対応に追われた。しかも、この記事は多摩地区だけでなく都内一円に載せられたので、23区の方々からも数々の応募があった。そんな中、国立に住んでいる人の中から、東京サイドでの組織作りの手伝いをしてくれる人が現れた。また、寄付をしてくれる人も現れた。
こうした活動の高まりの中で、まもなく現地に行くこともあり、団体名を決めることになったが、国立の「ファミリー」を拠点に活動しているということで、ごく単純に、ファミリー国立災害援助対策本部、略して「ファミリー国立」と名付けることにした。
結局、1日だけで11人、2日には13人と、合わせて24人もの人から応募があった。しかもそのうちの1人は、今すぐにでも行きたい、というので、3日から行ってもらうことにした。こうして、最初の派遣スタッフとして、3日からの先発組が男性4名、4日からの後発組が女性2名に、高校入学の決まった吉川兄弟末弟の文隆を加えた3名と決まった。
もはや、人的側面から見れば活動は軌道に乗り出していた。ボランティアをしたいという人が想像以上に多かったのだ。こうした中で、熱い期待を一身に背負って、最初の派遣隊が現地に向かった。